名前とは個人を表す記号である。
名前を呼ぶということは、その個人を認め、自分の中に受け入れることである。
だから私は、好意を持ってしまいそうな人は、別れが辛くなりそうな人は、決して名前で呼ばないようにしてきた。
Please Please Call Me
新しい船は居心地が良い。細やかな気遣いが至る所に伺えて、あの厳めしい外見でこんな繊細な船の設計が出来たなんて少し笑える。なんて言ったら彼は怒るかしら。
前の船もとても優しい空間で暖かくて好きだったけれど。あの勇敢な船は、私達を迎えに来てくれて、私が彼等の所に戻る為に背中を押してくれて、それから静かに、深い眠りへとついてしまった。
そんな『彼』の想いに答えるために、そして暖かく迎え入れてくれた『仲間』に応えるために、私は一つの決心をすることにした。・・・のだけれど。
「ねえねえ、ロビン!図書室や測量室があるの!女部屋も素敵なのよ!」
「そうなの?ふふ。良かったわね、ナ・・・航海士さん」
「うおおお!医務室だ!」
「あら。貴方のお城ね。チ・・チョ・・・船医さん」
その決心の実行は中々に難しく、未だ果たせていなかった。
「簡単かと思ったのだけど・・・意外と難しいわね・・・」
新しい船で出港してから三日目の夜。散々試そうとしたのに悉く失敗に終わっている自分が少し情けなくて眠れなかった私は、アクアリウムバーで一人グラスを傾けていた。もちろんここの責任者には断りを入れて。
・・・・その時も、失敗に終わったけれど。
「でも、本当にここは居心地がいいわ。フラ・・船大工さんに感謝・・・しないと」
一人で居るときですら、目的を達成することが出来ない。
「・・・駄目ね。私」
あまりの不甲斐無さに溜息を漏らしたその時。
「何が駄目なんだ?」
突然背後から掛けられた声に驚いて、栓が空いたままのワインの瓶を倒しそうになってしまった。
慌てて咲かせた腕で何とかテーブルクロスを汚すことは避ける。胸を撫で下ろして声のした方を振り向くと、そこには若草色の髪に翡翠色の瞳という少し珍しい色彩を纏った青年が立っていた。
「・・・驚いた」
「あ?アンタが気配に気付かないなんて珍しいな」
私が余程可笑しな顔をしていたのか、・・・剣士、さんは声を立てて軽く笑った。いつもは鋭い眼差しで実際の年齢よりも大人びて見える彼は、笑うと年相応の無邪気な顔になるのだという事を、初めて知った。
新しい発見が何となく嬉しくて、私も思わず笑う。それに片眉を上げて見せた彼は迷いもなく一本の酒瓶を取り出してきて栓を抜き、私の正面の席に座るとグラスも使わずに飲み始めた。
「あら。勝手に飲んでしまっていいの?」
「別に。わざわざクソコックに断る必要は無ぇよ」
「ふふ。いけない子ね」
子供扱いしたのが気に入らなかったのか、眉を顰める様子が微笑ましくて、くすくすと笑う。鼻を鳴らし再び瓶を傾けた彼は横目で私をちらりと見やると、そのまま口を開いた。
「で?何が駄目なんだ?」
「・・・・何でもないのよ」
「ふうん?」
私の返事に気の無い声を漏らして、瓶をテーブルの上に置く。そうして片肘を付いて顎を支えた彼は、澄んだ翡翠色の瞳をまっすぐに投げかけてきた。
「・・・名前。呼ぶのは難しいか?」
「え・・・・」
びっくり、した。まさか彼に気付かれているとは思わなかった。
誰かに心の内を読まれるのは慣れていない。どう答えたらいいのか分からなくて、けれど彼の目は視線を逸らすことを許してはくれず、私は身動きが取れなくなってしまった。
見つめる瞳は深く、穏やかな色をしていた。吸い込まれそうなエメラルド。緊張したのはほんの一時だけ。優しすぎず、冷たすぎないその色は次第に私の心を落ち着かせてくれた。
少しだけ、ほんの少しだけ、甘えてみてもいいかしら・・・。
「慣れて、いないのよ」
告げた言葉に、彼の瞳は色を変える事は無くて。
そうだった。彼は何時だってこの瞳で、皆から一歩下がった所で彼らの背中を見守っていたのだった。尻込みしそうになる背中を押し、迷いそうになる腕を取って進んでいた。でもそれは仲間にだけ向けられているものだと思っていたから。
「ロビン」
低く染み渡る様な声は、私が仲間だと。言ってくれていた。踏み出せないのなら、背中を押してやると。
だから、それにもう少しだけ甘えようと、思った。
「慣れていないのよ。名前とは、個人を表す記号で、名前を呼ぶということは、その個人を認め、自分の中に受け入れることで。だから、今迄好意を持ってしまいそうな人達は名前で呼ぶことが出来なかったの。呼んでしまったら、別れられなくなりそうで。別れてしまったら、私が壊れてしまいそうで」
情けない告白。なんて頼りない女だと思われただろうか。甘ったれた女だと呆れただろうか。綺麗な翡翠色が侮蔑の色に染まるのを見たくなくて、俯く。
真っ白に洗われたクロスが眩しかった。甘えてみようと思ったのに、次に投げかけられる言葉が、怖かった。
けれど、そんな私に向けられたのは、少し拍子抜けした様な笑いそうになるのを抑えた様な、そんな声だった。
「なんだ。そんな事か」
思わず上げた視線の先には、声と同じ様に笑いを堪えた彼の顔。そんなに可笑しな事を言ったかしら。
首を傾げて見つめると、耐え切れなくなったのかとうとう声を上げて笑い出した。
・・・・ちょっと、失礼よね?
顔を顰めて見せると、謝罪のつもりなのか片手をひらひらと挙げてみせる。それでも笑い続ける彼に憮然として、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
もう一杯グラスに透き通る様な赤い液体を注いだところで、彼の発作はようやく治まった様だった。
「は・・・悪かった」
「いいえ」
そっけなく返した私に彼は苦笑して再度、悪かった、と呟く。それから自分の持ち出した瓶を指先で軽く弾き、にやりと口の端を持ち上げて見せた。
「けど、んな間抜けな事言ったアンタも悪いんだぜ?」
「私?どうしてかしら」
私の返事に再び肩を揺らした彼は、きっぱりとした口調で言ってのけた。
「あの島での事を忘れたのか?アンタはこの船の仲間になったんだ。別れる必要は無い。もし別れたとしても・・・」
「この船の奴らは、アンタが嫌だと言っても無理矢理連れ戻すだろうな」
だからアンタは壊れない。
眩いばかりの瞳の輝きに、不覚にも涙が零れそうだった。瞬きを繰り返し、その波を何とかやり過ごす。
深く、穏やかな、仲間にだけ向けられていた彼の瞳は今、私にも与えられている。
「呼んでやれ。受け入れてやればいい。あいつ等はアンタを気に入ってる。きっと喜ぶ。大丈夫さ、ロビン」
怖くない、踏み出せばいいと背中を押してくれるその声は、なんて優しいのだろう。差し出された手は、なんて力強く温かいのだろう。
「あなたも?」
「あ?」
「あなたも、喜んでくれるのかしら?」
「さあな?そりゃ、実際呼ばれねぇと分かんねぇな」
眉を上げ、目を細める彼と笑いあう。不思議と穏やかな気持ちだった。
飲み干した瓶を放り出し、寝る、と席を立った彼に、ふと思いついて聞いてみる。
「ねえ」
「あぁ?」
「彼は?呼んであげないの?」
金色の髪に蒼い瞳。女性に限りなく優しく、実は目の前の翡翠色の瞳の持ち主にこそありったけの愛情を注いでいる人のことを思い出す。
「あなたが呼んであげたら、すごく喜ぶんじゃないのかしら?」
「呼ばねぇ」
「どうして?名前を呼ぶことは、怖いことじゃないんでしょう?」
目の前の謎は、解きたくなる。私の性かしら。しつこく問いかける私に、扉に手を掛けた彼は振り向いて、口の端を持ち上げる。
「俺が呼ばないのと、アンタの悩みとは別モンだ」
意味が分からず首を傾げる私に再びにやりと笑った彼は、疑問に対する答えを投げて寄越し、扉の外へとすり抜けていった。
「名前を呼ばないのは、切り札だ」
今夜の内に、私は何度彼に驚かされただろう。
こみ上げてくる笑いに耐え切れず、私は一人で声をあげて笑った。
「こういうの小悪魔って・・言うのかしら。大変ね、彼も」
いつも一生懸命に愛情を降り注ぎ、そして振り回されているあの人に、些か同情しなくも無い。
それでも、大変な秘密を手に入れてしまった事の方が嬉しくて、この事はもう少し、彼と私の秘密にしておこうとほくそえんだ。
暗く細く、手探りで歩んでいた道は彼の一言に光を与えられ、その道程をはっきりと指し示す。
その先に大切な人達が笑顔で手を振っていた。
きっと明日は、うまくいく。
グラスを片付け甲板に出た私は、ほんのりと胸の奥に灯った明かりを消さない様に、大事に抱えて、そっと瞳を閉じた。
これ程までに朝日を待ち焦がれたのは、初めてだった。
少し冷たく湿った、朝の空気を深く吸い込む。扉が開いて、そこから覗いたのは、朝焼けと同じオレンジ色をした髪の持ち主。
「あら?随分早いのね。おはよう、ロビン」
にこやかに笑いかける琥珀色の瞳に、微笑返す。
「おはよう。・・・・ナミちゃん」
少し緊張したけれど、驚くほど簡単に、その言葉は私の口から滑り落ちた。
大きい瞳を、零れ落ちそうな位見開いた彼女は、そして。
ああ、きっと私は忘れないだろう。
彼女が私に向けた、眩いばかりの笑顔を。それと共に与えられた、抱擁を。
私は今、本当の一歩を踏み出した。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる彼女の身体を負けじと抱き返した私は、ふと視線を感じて顔を上げる。
二階の甲板から向けられていたのは、深く穏やかな翡翠色の瞳。視線が合うと、その瞳は一層深く優しく細められ、船室の中へと消えていった。
それを見送りながら、知らず微笑が漏れる。
ねえ?名前を呼んだら、あなたも喜んでくれる?
それとも。
切り札として、取っておいた方がいいかしら?
END
ロビンが「ナミちゃん」と呼んでるのにきゅんきゅんして書いてみた話。
なのにゾロだらけなのは、愛です(笑
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